ヤン・フス
今からちょうど600年前の1415年7月6日、一人の聖職者がコンスタンツ公会議で異端審問にかけられ、火刑に処せられました。
その人物の名はヤン・フス(1370頃~1415)。ボヘミアに生まれ、カレル大学で学んだフスは、英国の神学者ジョン・ウィクリフ(1320頃~1384)の思想に共鳴し、カトリックに対する批判的な姿勢を強めていきます。
当時、カトリックは分裂状態にあり、ローマとアヴィニョンにそれぞれ教皇がいました。そして、1409年にはピサ公会議での一本化に失敗し、3人の教皇が鼎立する事態となりました。
分裂状態の中、聖職売買や免罪符の販売が行われる実態を目の当たりにしたフスは、1413年に著した「教会論」で「ローマ教皇と枢機卿とが普遍的教会なのではない」と説き、カトリックと正面から対決します。この2年後にフスは火刑台の露と消えますが、フスの死後、彼が始めた改革運動は大きなうねりとなり、カトリックと神聖ローマ帝国に対する反乱(フス戦争)へと拡大します。
フスの「教会論」には、聖書中心主義、信仰義認、予定説など、後にマルティン・ルター(1483~1546)やジャン・カルヴァン(1509~1564)らによって唱えられ、発展していった思想への言及も見られます。
宗教改革は、1517年、ルターがヴィッテンベルク市の教会に95カ条の論題を掲げたことが始まりとされ、フスはその先駆けというのが一般的な理解ですが、フスの母国チェコのプロテスタント神学者は、宗教改革を2期に分け、第1期がフスによる改革、第2期がルター、ツヴィングリ、カルヴァンらによる改革と位置づけています。両者には約100年の時間差がありますが、一体のものとして考えるべきという主張です。
本稿は佐藤優著「宗教改革の物語」(2014年、角川書店刊)を参考にしています。フスの生涯や思想に興味をお持ちの方はぜひ一読されることをおすすめします。