正論を語る人々

人に話を聞いてもらえるかどうかは、「何を」話すかではなく、「誰が」話すかです。発言の中身は同じであっても、信望の厚い人が語れば重んじられ、そうでない人が言うとなかなか耳を傾けてもらえない。この社会が感情を持った生身の人間による営みである限り、こういったことが起こるのは避けられません。

ところが、どんな組織や社会にも、このような現実を直視できない人が必ずいます。彼らは、聞くべき内容があるときは、誰の話であろうとも真摯に耳を傾けるべきだと考えています。まさしく正論です。しかし、この手の「正論を語る人々」はそれだけにとどまらない。

彼らは、自分の意見は正しいのだから必ず受け入れられるべきだと考え、自らの意見を受け入れない組織や人々を徹底的に批判します。ところが、では自らに対する批判には謙虚に耳を傾けるのかというと、往々にしてそうではない。反対者には限りない罵詈讒謗を浴びせかける手合いが多いのですね。当然、多数派を形成する常識ある人々からはそっぽを向かれ、孤立します。

例えば、ある会社で業務改善のためのプロジェクトチーム(PT)がつくられ、このチームが中心になって進めているとしましょう。チームは合議制ですから、さまざまな意見が出され、それを調整する結果として、PTが打ち出す方針は、穏健かつ漸進的なものとなります。

正論を語る人々は、これが気に入りません。彼らは自らが所属する組織に対し、常に過剰なまでの危機感を抱いていて、このような漸進的な方針では不十分だと考えます。PTが打ち出す方針や計画にはことごとく反対を唱え、対案を出します。この対案の中には傾聴に値する見解もあるのですが、大部分は理想が先走った、実現性の乏しいものです。

しかし、正論を語る人々は、そんなことは気にしません。現実に合わせて理想を曲げることは、彼らにとっては敗北以外の何物でもありません。自信に満ちた態度で自らの主張の正しさを強調し、その裏返しとして、PTのメンバーは無能だ、自分に任せればすべてうまくいくといわんばかりの態度をとります。

そうすると、当然のことながら多くの人々の反感を買い、意見を聞き入れてもらえない。すると、彼らはますます怒って自らの主張の正しさを言い募り、それを受け入れないPTに対して悪口雑言を浴びせ続ける。それがまた皆の反感を買うという悪循環に陥ります。

実のところ、彼らもみんなからそっぽを向かれていることには気づいています。そして、それが自らの日ごろの立ち居振る舞いに起因するものであることもわかっています。しかし、彼らは、どんな嫌な奴の言であろうとも、正論である以上受け入れられるべきだと考えていますから、正論を受け入れない連中を自分が啓蒙してやらねばならないとは考えても、自らの言動を改めることは露ほども考えません。かくして、彼らの意気込みは空回りを続けることになります。

例の行政書士をこよなく嫌う弁護士のブログを見ていて感じたことです。私が在職していた職場にもこのタイプの人がいました。ただ、行政書士にはこういう人は少ないというか、むしろ、こういう性格の人は行政書士には向いていないと言えるでしょうね。

 

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